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紫陽花の色は定まらない #1/刑事とアルビノ-1

1/刑事とアルビノ


 正義の味方なんて夢はもう卒業している。
 それは余りにも曖昧で、ガキだった時分のオレはきっと出来るんだろうと、絶対的になっているんだろうと世界を知らないままに考えていた。
 けれども誰だって希望に挫折する。
 望むものになれる人間なんて居やしないのだから当たり前だ。完璧な理想を追い求める事が既にナンセンスで『夢が叶いました』と語る――騙る――人は、確かに手に入れてはいるんだけど、それは一部で全てじゃない。
 子供はいつか現実主義者になる。
 子供のままでいる事が出来た人間が幸運なんじゃなくて、子供のままでいさせてくれた環境に恵まれた事が幸運なんだ。だから無垢な理想主義者は皆現実に侵食されて呑み込まれる。
 夢は棄てる為にしか無い。
 少なくともオレは棄てた。思い切り、遠くまで、もう拾って来れない程遠くに投げ棄てた。
 正義なんて考え方自体が元々破綻していて、どれだけ追及しようと辿り着く果てには正義の加担者という不義しか存在しない。気が付いたら逆転している立場に、道理が要求してくるのは多勢の道筋で無勢の意見は押し潰される。
 少し考えれば当然の様に解る簡単な社会構造だ。
 ヒトは個性を欲しがるけれども、それは自分だけの話で、身の回りにある他の突出したものは叩き潰す。だから平均化された譲歩の範囲内で落ち着かせようと、転じて常識が出来上がってオレは何にもなれなかった。
 それが今のオレだ。
 求めたオレの『正義の味方』なんていうモノはブラウン管越しにしか無かった。社会がそれを受け容れてくれないから仕様が無い。そもそも、オレ自身が正義に負けたんだから社会の味方が精々止まりだった。
 けど。
 だけど――別の形があったなんて知らなかった。
 遅過ぎたんだろう、何もかも。早過ぎたんだろう、どれもこれも。正義の味方になんてならなくても、それが出来たのにオレは頭が悪過ぎた。
 それを知ったオレはどうするべきなんだろうと考えて――拾いに行くしかないじゃないか。
 巫山戯やがって。
 その為に歩みを進めようと努力をしているオレだけど、社会の味方になってしまったからには、それを無碍にする事も出来ない。間に合うか解らないけれど頑張る事ぐらいは、したい。
 ぴしゃりと雨水が跳ねた。
 靴下にほんの少し滲み込んで、冷たさで立ち止まる。
「……えっと」
 無意識に何かを考えて込んでいた気がしたが忘れてしまった。というよりも、ぼうっとしていたという方が正しいか。
 結構な距離を何も注意せずに歩いていた気がしたけれど、どうやら目的地を通り過ごす程呆けていた訳じゃないらしい。辺りを見回した感じでは、まだもう少し距離がある。
 しかし、今年の梅雨は寒くなりそうだ――益体も無く思った。
 また歩き始めて、今度はある程度意識的にどうでもいい思索に耽り始める。
 トレンチコートを着ていても、傘を持つ手が少し悴む。正直、油断した。梅雨でもこんなに冷える事があるなら、手袋を持ち歩くべきだった。
 今年は陰性の梅雨だとか、ニュースで言っていたのを思い出す。しとしと降り続け、天気はずっと崩れたまま肌寒い日が続くらしい。
 正にその通りだ。強く激しい降り方はしないが長く降る。ここ数日、晴れ間を見た覚えが無い。気温は低いが、体感温度はもっと低いだろう。冬の乾いた寒さとはまた違う、梅雨独特の熱を奪われる寒さ。地味に徒歩はキツいなぁ。
 駅から先輩の事務所までの道のりは、そう長くは無いのに、指先はもう冷え切ってしまって、指の間接が軋む。
 近くにコインパーキングがあれば車で来れたのに、不便な立地だ。仕事中なら路駐も已む無いが、今日は私事だし、緊急事態以外の違法行為は論外だ。少しぐらいなら、という出来心が駄目だという事は散々目の当たりにしている。だから徒歩で行くしか無い。
 それに、課長や上の方には可能な限りバレない様にしたい。路駐した事が報告されて、綻びを作るのは阿呆らしいし、それ以前に自分の立場を考えれば、するべきじゃないのは当然。
 思い返すと、この前の事件でも、結構ギリギリなところがあった。何も言われないからには露呈してないだろうけれども、やはり後ろめたさと罪悪感は拭えない。
 皆が懸命に頑張っている中で、オレだけ情報を秘密にして、周りの努力がある意味で無駄だと隠してる。裏切っているのも同然だ。いや、事実裏切っている。
 責められても言い訳は出来ないだろう。謝ったところで責任が取れる訳でもない。せめて、真相を知る事が出来ればよかったのに、教えてもらえず仕舞いでいるから、妙な焦燥がある。
 皆を利用しただけの様な終わり方だ。それも、成果を得られていない。
 終着としては最低だ。先輩にも事情があるから何も言わないのだろうし、だからオレは宙ぶらりんな位置にしか立てない。
 ――だけど。
 今の自分を考えると、自然に傘を持つ手に力が入った。
 だけど、オレはまた同じ事をしようとしている……まるで成長が無い。いくら経験を積んでも、霊が関わる怪奇事件をオレは理解し切れない――していない、したくない、のかも知れない。
 最近のちっとも晴れない曇り空も相俟って、思わず憂鬱になる。オレへの呵責の様だ。神様、オレを責めるなら、もっと直接的にしてくれ。
 馬鹿な事を考え、白い溜息を吐いてから道を確認すると、目的地を通り過ぎていたのに気付いた。何だかんだで結局またぼうっとしてしまった。道を戻って、目当てのビルの前に立つ。
 奇妙な印象を受けた。
 両隣の建物の背が高く、しかも殆ど同じ高さの為、三階建てのテナントビルだけがへこんでいる様に見える。まるで凹の字だ。日照権とか大丈夫なのか、これ。
 確か、ここの二階だった筈だけど……テナントの表示板を見てみる。一階は喫茶店、三階は雀荘、そして二階は――探偵事務所。間違い無い。
 しかし、考えてみると、直接先輩の事務所を訪問するのは初めてだ。いつもはオレが周囲に警戒して、毎回違う場所で先輩と会うから、ここを利用しようという発想が無い。
 今日も今まで通り、連絡を取って別の場所で会う事も出来たのに――オレは押し掛ける事で、先輩に以前の事件の真相を教えてもらえるとでも思ってるのだろうか。つくづく自分が情けなくなる。
 真実を知る事の出来ない不安。そして今直面している、新しい事件。自分の立場と権力がとても無力に感じる。ここに入る事は、それを受け容れる事になる。
 ――関係無い。オレは、解決したいだけなんだ。
 傘を閉じ、躊躇いを捨てて狭い階段を上った。二階の踊り場で、『黒木私立探偵事務所』というプレートの付いたドアをノックする。
「オレですっ。先輩、居ますか?」
 少しの間の後に、「あ、ちょっと待ってて下さーい」と女の子の声がした。
 …………、何で先輩の事務所に女の子? 恋人を作る様な人ではないし、友達でも来ているのだろうか。だけど、よく考えてみると先輩に女友達が居ると思えない。えっ、嘘、もしかして場所間違えたとか? だとしたら相当恥ずかしいぞ。
 疑問の最中、変に緊張しているとドアが開いた。
「お待たせしました、どうぞ中に入って下さい」
 よく透る明るい声と笑顔で出迎えてくれたのは、まだ高校生くらいの女の子だった。
 長くはない、耳が隠れる程度に伸ばした茶色い髪に、榛色の眼。全体的に色素が薄い印象の子だ。大きい眼に愛嬌のある顔をしていて、正直な話、こんな場末な雰囲気の探偵事務所に、とてもじゃないが似つかわしくない可愛い子だった。
「あれ? どうかしました?」
「えっ、いや……可愛い子に出迎えられて、ちょっと予想外で」
 面喰っていたオレがそう言うと、女の子は少し不思議そうに首を傾げた。
「んー……? あっ、あたしの事か。有り難うございます。さ、中にどうぞ」
 女の子は笑顔のまま、当惑しているオレを事務所に促した。
 中は、事務所というよりも居間に見えた。ソファと食卓があって、依頼人から台所を隠す為だろうか衝立が置いてある。ワークデスクの様なものは置いておらず、代わりに書類用キャビネットがあった。
 探偵事務所というものを初めて見たが、住居兼用事務所と言えばいいのだろうか、しかし完全に住居になっている気がする。
 そして、その住居の家主は、前屈みに手を組んでソファに座っていた。
「こんな雨の日に、何の用だ?」
 この探偵事務所の所長であり、オレの先輩――黒木(くろき)晨夜(しんや)は怠そうにこちらを見る。
「入口に突っ立っていないで入れ。用件が無いのにここを訪れる程、お前は暇な立場の人間ではないだろう。まぁ、ここまで来て帰るのもお前の自由だが」
 言われてやっと、オレは中に入ってから一歩も動いていない事に気付いた。
「あぁ、いえ。用事はあります。訊きたい事があるんです」
 ぼうっとしていた頭を切り替えコートを脱ぐと、女の子が預かってくれた。気の利くいい子だ、本当に何でこの事務所にこんな子が居るんだろうか。
 先輩は怪訝そうに片目を細める。
「訊きたい事だと?」
 はい、と答えながらソファに座ると、女の子がお茶を出してくれた。この子本当に手慣れてるなぁ。
 先輩はそのままその子に言った。
「彼方(かなた)、席を外してくれ」
 言われて女の子――彼方ちゃんという名前らしい――は首を傾げる。
「じゃあ、部屋に居ますけど、それでいいですか?」
「いや、外に行ってくれ。どうせ盗み聞きするだろう」
「えー? 晨夜さん、酷いですよ。今日は外、雨降ってて寒いじゃないですかぁー」
 かなたちゃんは追い出される事に不平を漏らすが、盗み聞きに関しては否定しない。
「高校にでも遊びに行ったらどうだ。あいつも暇なところだろう」
「うー、ヌエのところですかぁ? それじゃ、そうします」
 そう言うと、彼方ちゃんは部屋に行った。少しすると、上着と鞄を持って部屋から出てきて、行ってきます、とその姿で事務所を出て行く。行ってらっしゃい、と先輩は適当にそれに応えていた。
 あの子……彼方ちゃんは、ここで暮らしているのだろうか。しかし、先輩とは一体どういう間柄なのだろう。助手というには若過ぎるし、恋人や友人の雰囲気では無い。
「……先輩、あの子は」
「娘だ」
「むすめっ?!」
「養女だ」
「よ、養女!? えぇと、一体何がどういう事で、全体訳が解らないんですけどッ……せ、説明を、この混乱を収める説明を!」
 予想外の返答二つ。先輩に十代後半の義理の娘が出来る人生の流れが全く思い付かない。
「数年前に関わった事件で、彼方が天涯孤独になり、俺が引き取った。理解出来たか?」
 だけど一行で説明された。
「……で、出来ました」
 そうか、と先輩はスラックスのポケットから懐中時計で時間を見た。
「それで、急な訪問の理由は何だ? この前の〝四肢(しし)狩人(かりうど)〟事件なら片付いているぞ。また捜査に行き詰まりでもしたか」
 さり気無く、先に釘を刺されてしまった。やはり、以前の事件については、これ以上の話はしてくれないらしい。淡い期待があったのも確かだが、本題はそっちではない。
「ありました。今日は、その事について助言を仰ぎたくて」
「キメラ事件か」
 先輩は、オレの心を見透かしたかの様に即答した。
「なっ、……そうです、よく解りましたね」
 キメラ事件――抜き差しならない事態の事件だ。御宮係と揶揄される場所に所属しているが、ここまでの閉塞感は初めてだ。進む為の標も見つからないのだから、二進も三進もいかない。
 驚くオレとは対照的に、先輩は淡々と言う。
「最近世間を騒がせているからな、お前が関わる事件ではあるだろう。それに、気になっていたところだ、無差別予告殺人事件というものが」
 そう、キメラ事件の犯人は殺人予告を出すのだ。『キメラ』という、謎の名を名乗って。
「先輩、そもそもキメラっていうのは何なんですか? 犯人は何故そんな名前を使うんだと思います?」
「キメラは、元々はギリシア神話の怪物、キマイラの事だ。獅子の頭に山羊の胴体、蛇の尾を持ち、その姿の不可解さから荒唐無稽という様な意味合いで『訳の解らない物事』といった例えにもされる」
 継ぎ接ぎの化け物がオレの頭に思い浮かぶ。だがそいつは、化け物じゃなく人間の殺人犯だ。それが『訳の解らない物事』の例えにされるもの――的を射り過ぎている。
「あとは、複数の遺伝子を持つ個体をキメラと呼ぶ事がある」
「複数の遺伝子って――DNAが二つあるんですか? 本気で訳が解らないですよ、それって。本当に居るんですか?」
「……簡単に言えば、双子になる筈だった受精卵が、一人になってしまったという事だ。二つのDNAで身体が作られるから、結果的にDNAを複数持つ。見た目で判るとしたら、虹彩異色症(ヘテロクロミア)になった場合だけだな。まぁ、ヘテロクロミアは別の原因でもなるから、一概に言い切れる事ではないが」
「はぁ……そんな事があるんですね」
「馬鹿な事を言うな、前の事件の被害者にキメラ体が居た。全く、調べた事を忘れるな」
 そうだったっけかな……思い出せない。
 憶えていないなら今憶えろ、と先輩は嘆息した。
「事件について一般に出回っている情報は、キメラと名乗り予告状を出す事と、三人の被害者は共に刃物で殺されているという事だけだな?」
 そうです――オレは首肯した。
「実際は、それ以外には殆ど判っていないだけなんです。キメラが一体どうやって、犯行を重ねているのかは、皆目解らない状況です」
 ――何度反芻しても、先に進めない事件だ。
 始まりは、一通の手紙と変死体だった。
 あるマンションの住人が首を切り裂かれて殺されているのを友人が発見し、警察に通報したのだ。
 部屋の中は特に争った形跡も無く、被害者も抵抗した様子は無かった。無防備な状態で、一撃で殺されたとでもいう様相で、余程親しい人間の不意を衝いた犯行かと思われた。
 だが被害者の元に、殺人予告と身辺整理を勧める紙が送られていた事が、後に被害者の友人の話から判った。
 それはある日突然郵便受けに入っていたらしく、
『初めまして、私はキメラというものです。近々貴方の幸福の為、殺人に参りたいと考えていますので、お願い致します。ついては、身の回りを綺麗にして準備をしておく事をお勧めします』
 という巫山戯た、だがしかし馬鹿に丁寧な、このご時世には珍しい手書きの手紙だったらしい。
 直接的な『殺す』や『死ね』という言葉を、憎しみを込めて乱暴に書き殴るといった類ならまだ解る。しかしこれでは、理解不能な紙っぺらにしか思えない。
 案の定、被害者は不気味に思いながらも、悪戯だと考え警察に連絡せず、紙を捨ててしまったらしい。話の種にそれを聞いていた友人は、まさかそれを送り付けた人間が犯人ではないか、と話した。
 しかし、紙は捨てられていて確認も取れなかったので、その時点ではただの変な話という程度の認識、寧ろ第一発見者の友人が犯人で、捜査撹乱が目的ではないかと思われもした。
 そして捜査を進めていく内に、また被害者が出た。
 第一の被害者と同じ様に無防備な状態で、心臓を刃物で刺され殺されていて、『キメラ』という名の入った予告状が発見された。
 話に聞いた通りの内容で消印まで付いており、それを知り得る者は捜査に関わった人間か、予告状を見た者のみであるのにも拘らず、その一枚の紙は現場にあった。
 ここで問題が起きた。第一と第二の被害者は、余りにも無防備に抵抗もせず殺されていて、犯人は親しい人間であると思われていたのだが、二人には何の接点も無かった。
 友人や親類、仕事先の関係等を探ってみても、まるで無関係。つまり、共通する人間が居ないので第三者――キメラという犯人が、無作為に被害者を選んで殺したとしか考えられなくなっていた。
 中には、第一の被害者の友人が、更なる捜査撹乱の為に、適当な人間に予告状を送り付け、殺したんじゃないかという考えも出た。
 だが、それも第三の被害者が出る事で、可能性はほぼ完全に潰えた。
 第三の事件も、第一、第二と同じ様相を呈していた。被害者は無防備に、両手首を切り裂かれ殺されていて、キメラの名が入った予告状も発見された。
 三人の被害者に関係は無く、捜査撹乱と言うにはリスクの大き過ぎる犯行。自然、キメラという無差別殺人犯の影は濃くなり、確立された。
 そして、今も尚、キメラは影を見せるだけに留まっている――
 まるで劇場型の犯罪者だな、と先輩は言った。
「それで、どう捜査に行き詰っている?」
「先ず犯行方法が判らないんですよ。三人もの人間を、抵抗されずに殺害していて、しかも殺し方が全部違うんです」
「検死の結果は」
「異常なところ――と言うのも変ですが――何もありませんでした。それぞれ刃物で殺されて、見た目通りの死に方をしています。使われた刃物も全て同じ物だと断定されました。検査でも薬品の類は何も出ませんでしたし」
 成る程、と先輩は呟く。
「だがそれでも捜査が完全に行き詰る程ではないだろう。最大の問題点は何だ」
 そうなのだ。ただ奇妙な死体が見つかるだけなら、犯人を捜すのにそこまで大きい問題にはならない。殺害方法と凶器の形状まで判れば充分に事足りる。だが、このキメラ事件にはもっと厄介な特徴がある。
「……証拠が、何も出ないんですよ」
 ほう、と先輩は片目を細めた。
「指紋も髪の毛も足(ゲソ)痕も証言も、一切何も怪しいものを見つけられなかったんですよ! 考えられますか? 容疑者を探す材料が無いんです、キメラという名の入った予告状以外は、何もです!」
 悪夢の様な事件だ。三人も被害者が出ていながら、何も出来ない。捜査をしようにも、これ以上何をすればいいのか、キメラと名乗る犯人が動くまで判らない有様なのだ。
 本当に人間の仕業かと疑いたくなる――だから、オレは先輩の許を訪れた。
 怪奇事件専門と謳われる探偵、黒木晨夜。
 実際に、先輩が解決した事件は霊や超常現象と呼ぶべきものが絡んでいる。信じられないが、オレには理解の及ばない出来事が起きているのは確かだ。存在しない殺人者や、手を触れずに相手を殺す者、生きた相手の腕を狩り殺す異常者……。
 今までの事件と同様に、このキメラ事件にも、それが潜んでいる気がする。
 オレが語気を荒げると先輩は、そうか、と納得した様に言った。
「ロカールの交換法則に反する」
「は? ろ、ろかー、何です?」
「人間は一つの部屋を通過する時、それとは知らずに必ず何かをそこに残し、代わりに何かを取っていくという、犯罪学者エドモンド・ロカールが提唱した法則だ。簡単に言えば、お前が事務所を訪れた事で、毛髪を落とし、お前の服には俺やかなたの毛髪が付くという事だ」
「え、な、何か気持ち悪い話ですね」
 思わず自分の身体を掃ってしまった。
「何も証拠を残さずに人は移動出来る訳は無いという事だ。現場は誰かが洗浄していた訳ではないだろう?」
「えぇ、そうです。単純に何も見つからなかったという話です。――どうですか、これは先輩の領分の事件じゃないですか?」
「俺の領分というのも奇妙な言い種だが、確かに虚有(きょゆ)は関わっていそうだ。かなたを高校に向かわせて正解だった」
 先輩は何処か気怠そうに溜息を吐き、片目を細めた。
「それで、第四の予告状には何と書いてあったんだ?」
「はい、それは――って、え? オレ……言いましたっけ、四枚目の事?」
 いいや、と先輩は首を振る。
「じゃ、じゃあ何で判ったんですか?」
「お前は完全に行き詰った事件を、俺に頼れば解決出来ると思っている無責任な人間ではない。俺は異能者でもないし、事件があれば解決出来る機械仕掛けの神でもない、限界を持つ人間だ。それを判っているお前が俺を頼りにする契機は、状況に進展があった時ぐらいのものだ。唐突な訪問も、それが理由だろう?」
 先輩はそこで一旦言葉を切って、俺を見た。
「もっと頭を使え、日(たちもり)馨(かおる)刑事」
 頭はいいのに、一言多いのが玉に瑕だと思う、この人。


 校舎の窓から見える空が、灰色の天幕を張っている様だと思った。
 雨が降っているのに、雨を防ぐ為の物を連想するというのも変な話だ。今回の中間試験の期間中、太陽を見た記憶が無い。俺はどちらかと言うと太陽が嫌いだが、こうも見れないと少し恋しくなる。というか湿気で髪が広がるし、アホ毛が出る事があるから陽が欲しい。
 それと、外出にも不便だ。ジャンケンで負けて間食の今川焼を人数分買いに行かされる時とか、凄い面倒臭い。今みたいに。傘で片手が使えなくなるだけで凄い不便になる。何で傘は進歩を止めてしまったのだろう。両手が自由になる様な試行錯誤は求められていないのだろうか。……いや、俺だったらしないけど。
「あー、でも早く食べたい……」
 抱えている紙袋から感じる重みと温もりがとてもいじらしい。
 この中途半端な生徒会室までの道のりが鬱陶しくて堪らない。七星(ななほし)庵の今川焼は徒でさえ中身がぎっしり詰まっていて生地が湿り易くて、梅雨時の湿気で更にへたってしまうから焼き立てを食べるのがベストなのに。加えて気温が低いせいで冷めてしまわないか心配だ。早く戻って今川焼をゆっくりと食べたい……。
 その思いに急かされる様に階段を足早に上り、角を曲って生徒会室の前に差し掛かると誰かが立っていた。高校の制服を着ていない、外来の人だろうか。生徒会室に用があるというのは珍しい。
 茶髪のセミショートに見覚えがあり、誰だろうか、と考えていると、相手はこちらに気付き榛色の眼を向けた。
「あ、ヌエ発見」
「何だ……、捺夜(なつよ)だったのか」
 道理で見覚えがある訳だ。親友の後ろ姿ならば、何かしら思い当たる。
「旧姓は止めてよ。今はもう黒木彼方なんだから――あれ、何それ?」
「これは今川焼。ところで何しに来たんだ、わざわざ高校に。事務所の仕事か?」
 高校に通わず、黒木の助手をしている捺夜が、ここに来る用はそう多くないだろう。まさか、また虚有絡みの事件でもあったのだろうか。
 少なくとも黒木の知人の中で、あの虚有という霊を視る事が出来るのは俺だけだ。虚有に関する事で手伝いを頼みに来る事も考えられる。というか、それ以外に黒木が俺を必要とする事は無いのだが。
 俺の予想とは裏腹に、違うよ、と捺夜は言った。
「お客さんが来て事務所を追い出されたの。だから、遊びに。ヌエの方こそ何してたの?」
「俺はジャンケンで負けて使い走り。鏡花(きょうか)と槻木(つきのき)の分の今川焼を買ってきたところ」
「あ、じゃあやっぱり、いつもみたいに生徒会室に集まってたんだ」
 そうだよ、と答えて俺はドアノブに手を掛けた。
 しかし、何だ、別に事件という訳では無かったのか。黒木が俺を事件に引っ張り込む時には、いつも捺夜を通じているから(単純に黒木が動かないだけかも知れないが)、判り難い。
「立ち話してないで中に入るか、二人も待ってるだろうし」
 言って、俺は生徒会室のドアを開いた。中に入ると、何故か長机の上にトランプが散乱していた。机を挟んで、生徒会副会長である鏡花と、机に突っ伏している槻木がパイプ椅子に座っている。どういう状況か全く判らない。
 鏡花がこちらを見て、お帰りなさい、と言った。
「あら、カナちゃんも来たのね、今日は」
 こんにちはー、と捺夜が挨拶を返す。その傍らで、槻木は何やらぶつぶつ言っていた。俺が席を外している間に、何処と無く惨状という言葉が似合いそうな悲哀を漂わせている。
「……何してたんだ?」
「貴方の帰りを待つ間に、ちょっと槻木君とポーカーを」
「ぽーかー? 何でまたそんな戯れた事を」
 ポーカーのルールはよく知らないが、権謀術数が趣味の鏡花に、この手のゲームを挑むのは自殺行為だと思う。鏡花の事を、副会長でありながら生徒会を掌握している事実上の会長である事と、同じ会社に雇われて一緒に仕事をして嫌と言う程理解しているだろうに、槻木は何を血迷ったのだろうか。
 トランプが散乱しているのを見ても、槻木が大敗したのは一目瞭然だ。当の本人からも、敗者の雰囲気しか感じられない。俺だったら、鏡花と賭事なんて絶対にしない。したくない。しかし鏡花ならば、そんな本人の意思は無視して、舞台に上げる下準備なり仕立て上げてきそうなのは問題だが。
 槻木はやっと俺が帰って来た事に気付いたらしく、暗い顔で、お帰り、と言った。徒でさえ三白眼なのに、眼だけでこちらを見るから余計になる。そして再びぶつぶつ言い始めた。余程酷い負け方をしたのだろう。だが鏡花相手では同情してやれない。
「……有り得ない、高々十数年しか生きていない高校生の勝負で、しかも素人がロイヤル・ストレート・フラッシュを出すとか有り得ない……」
「ビギナーズラックというのも怖いわねー」
 どうやら、槻木は鏡花がポーカーの素人だと言うから相手をしたらしい。そしてぼろぼろに負かされた。素人相手に負ける事は無いと思ったのだろう、それで最強の役を出されていれば世話は無い。
「イカサマだっ! 絶対にイカサマだーッ!! ロイヤル・ストレート・フラッシュは六十五万分の一の確率だぞ!? それがビギナーズラックだって? そんな訳があって堪るか!」
「正確には六四万九七四〇分の一だよ涼君(りょう)」
 実にどうでもいい訂正をする捺夜。
「……まぁ、別にいいだろ。高がゲームで負けたくらいで、男が女々しい事を言うなよ」
「何も知らずに物を言うな、このウサギ!」
「誰が兎だ」
 よりによって人の特徴を論って八つ当たりをするか。
「何か賭けてたの鏡花ちゃん?」
「うふふ、ちょっと、ね」
 捺夜の問いに、楽しそうな含み笑いを浮かべる鏡花。とにかく碌な事ではなさそうだ。
「それじゃ槻木君、今日から宜しくね」
「嫌だ、絶ッ対に嫌だ」
 槻木は首を振りながら力強く言う。対してそれを聞いた鏡花は、サディスティックに微笑う。しかしこれが本性の癖に、よく生徒会の副会長として人望を集め、校内一の美女という称号を貰えるものだ。槻木苛めで欲求不満を解消しているのだろうか。
 この生徒会室をこうやって自由に使えるのも、鏡花のお陰ではあるのだが、何だか悪い事をしているのではないかと勘繰ってしまう。鏡花が言うには、生徒会の仕事をしてる事になっているので平気らしいが……まぁ、実際書類を整理したり、パソコンで何かのファイルを作ったりしてはいたのだが。
 生徒会を掌握している腹黒女は、槻木にとても綺麗な笑顔で語り掛ける。
「あらら、そんな事言っていいのかしら? 先刻の勝負で貴方にはもう抵抗の余地は無いのよ」
「くっ、このマキアヴェリ・サド女……! だったら一週間だ、それ以上は無理だ!!」
「駄目よ、無期の約束だから。さっ、この話はこれで終わりよ。早く今川焼を食べましょう、冷めちゃうわ」
 そう言うと、鏡花は完璧に槻木を無視して、棚から皿を出し始めた。
「あ、私も手伝うよ」
「ありがとうカナちゃん。それじゃ、お茶淹れてもらえる?」
 判った、と捺夜は茶葉を用意し始めた。
 しかし、この生徒会室、絶対職員室より色々と充実している気がする。
 生徒会室なのに冷暖房完備で、小さい冷蔵庫にコーヒーメーカー、電気ポットまである。それに、数人分の食器が一式揃っている。生徒会役員じゃない俺や槻木、況してや生徒ですらない捺夜に、堂々と私用で使われてしまっていいのだろうか。これも会長である鏡花の、手腕の賜物と言うべきか。違うだろうが。
「おい、簓木、僕はまだ話を終わらせるつもりは」
「あっ、ヌエ、カナちゃんの分の今川焼が無いけどどうする?」
「ん? それなら大丈夫。俺が自分の分を多めに買ってきて三つあるから」
 紙袋を机に置いて中を確認する。確か槻木がカスタードで、鏡花は粒餡。俺はカスタードと粒餡と白餡を買ったから、全部で五個入っている。
「無視するなー! 僕の話を聞けー!!」
「三つも食べる気だったの? 太るわよぉ?」
「太らない体質だから平気だ」
 揶う様に言う鏡花から皿を受け取って今川焼を皿に載せていると、捺夜が嘆息した。
「ヌエのその体質羨ましいよねぇ……本当に幾ら食べても太らないし。あたし、最近ちょっと体重増えた」
「大丈夫よ、カナちゃんは十分可愛いから」
「違うのー! 晨夜さんの洞察力が凄過ぎてバレちゃうのー!!」
「俺も捺夜は十分可愛いと思うよ。黒木の事なんて気にするなよ」
「二人とも高級天然素材だからそんな事言えるの!」
「おい、ちょっと待てガールズトークで僕をスルーするな!!」
「俺は太らないって言っても、その分食費が掛かるけどな。捺夜は白餡でいいか?」
 うん、いいよー、と言う答えを聞いて白餡の今川焼を捺夜の席に置く。鏡花の前には粒餡を、自分の分も置いて行く。捺夜もお茶を淹れ終わり、湯呑みを配り始めた。
「凄いな、徹底的に無視するのか! 僕は空気扱いか!? それともモブか背景か?!」
「先刻から煩いな、ほら、お前の分」
「はい、どうぞ。涼君の分のお茶」
「え。あ、どうも――って、ボケまで殺された!」
「本当に貴方面白いわね槻木君」

「あれは絶対堅気さんじゃないと思うんだよね」
 今川焼を食べ始めてから、捺夜はそう言った。
 何故捺夜が高校に遊びに来たのかという話題が俎上に載って、事情を聞いてから当然、話は事務所の訪問者についてになった。
 捺夜によると、スーツにトレンチコートを羽織っていて、短く切った髪の毛を立たせ、グレーのスクエアレンズの眼鏡を掛けていたらしい。確かに、想像する限りではその筋の人に見えない事も無いが、判断材料が足りな過ぎて何も言えない。
「何で堅気に見えなかったんだ?」
「え? だってほら、恰好がインテリヤクザみたいじゃない?」
 ……そういうものなのだろうか。第一印象での恣意的な偏見がある様な気がするのだが。
 鏡花がお茶を啜りながら言う。
「その人は何の用事で来たのかしらね。探偵さんへの依頼?」
 捺夜は、うーん、と首を傾げる。
「その辺りは判らないんだよね。訊きたい事がある、みたいな事は言ってたんだけど」
「だったら依頼で決まりなんじゃないかい? 探偵の許に来て、訊きたい事があるなんて言うのは、何かしらを頼む事くらいだろう?」
 槻木の言葉に、捺夜は困った様に、そうでもないんだよね、と言った。
「何か、二人とも顔見知りみたいだったし。依頼人だとしたら、晨夜さんがあたしを追い出した理由も判らなくなっちゃうし」
「そもそも、あいつが何を考えてるのかなんて、俺にはちっとも解らないんだが」
 虚有絡みの事件を手伝っている時でも、一人で納得して話を進めるから、何の為に行動しているのか判らなくなる。それでも、最終的には事件は綺麗に解決するから謎だ。
 黒木が人に説明するのは確実な事だけだ。探偵の癖に、自分で完全に納得して、確証を得ない限り推理を話さない。ホームズでもワトソンにもう少し説明する。
 仮令話したとしても、段階的にぶっ飛んでいるから何の事だか解らない事が圧倒的だし、実は妄言癖なんじゃないかと思ってしまう。しかし、馬鹿でも阿呆でも愚かでもないから、俺が何かを言える事は無いのだが。
「いや、それはそうなんだけどね」
 あはは、と捺夜は苦笑した。
 俺が呆れて二つ目の今川焼を食べ始めると、槻木が無駄に老成した溜息を吐いた。達観というよりも、人生に諦念を抱いた様な表情をしている。いつもの事ではあるが、高校生にしてこの境地に達せられるのは、ある意味阿呆だと思う。
「しかし、羨ましいね。強制されずに仕事をしている君達が」
 その愚痴とも取れる一言に、透かさず鏡花が愉しそうに言った。
「あら、槻木君。そんな事言ってると、会社の方に報告しちゃうわよ?」
「止めてくれ、反抗していると思われたら困る。僕は従順なサラリーマンなんだから」
 げんなりとした顔で槻木は言う。
 最近知った事だが、確か、槻木は『オルガノン』という世界規模の会社に、非公式に雇われている。
 オルガノンは虚有を調査しているらしく、槻木も俺と同様に視える人間で、家族が事故に巻き込まれて身寄りが無い為、調査員として会社に引き取られたらしい。一通り、生活に不自由はさせない代わりに、服従をしなければならないとか。槻木曰く、『自由意思を剥奪しない辺り性質の悪い会社』らしい。
 鏡花も同じ様に働いているらしいが、詳しい事は知らない。というより、教えてくれない。判っているのは、二人は世界の裏側に関わっている人間だという事だけだ。荒唐無稽で波乱万丈な人生を送っている高校生達だと思う。
 しかし、虚有に関わっている時点で、俺もそちら側に足を突っ込んでいる事になるらしいのだが、実感はまるで無い。俺からすれば、虚有が視える事は子供の頃から慣れているので、日常の一部としてしか受け取っていない。
 騒霊(ポルターガイスト)や念動(サイコキネシス)の様な異能を噛まされる事件があるから、それが裏世界に属する出来事という事かも知れないが。それでも槻木の様に、ある日急に学校に来なくなったと思ったら、二日後に入院したりした事は無い。精々、黒木が関わった事件の手伝いで、追い詰められた殺人犯に殺されそうになって、それを返り討ちにするぐらいだ。
 何をしているか判らない槻木よりも、まだ日常の事件の延長線上に居る俺の方が普通だ。
 俺は口の中の今川焼を飲み込んでから、捺夜に訊いた。
「どうせ黒木の目的は判らないんだろうし、捺夜を追い出した事に理由があるなら、それなりの行動を取るんじゃないか?」
「結局、そうなっちゃうかぁ……」
 捺夜が嘆息し、同時に携帯の着信音が鳴った。俺には馴染みの無いJ‐POPらしい曲が流れる。
「あ、あたしのだ」
 誰のものかと思っていると、捺夜が鞄から携帯を取り出した。
 メールが来ていたらしく、携帯を弄っていると、捺夜は少し眉を顰めて俺を見る。
「ヌエ、晨夜さんが行動を取ったよ」
「……何だって?」
 訊くと、捺夜は携帯の画面を見せた。
 そこには『夜鳥(ぬえ)を連れてきてくれ』という、短いメールが着信していた。


紫陽花の色は定まらない #1/刑事とアルビノ-2

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